381系誕生秘話~part8~

本日のブログは前回の『381系誕生秘話~part7~』の続きです。

「山陽新幹線岡山延伸とやくも」

ヨンサントオの前年1967年、新大阪-岡山の山陽新幹線の工事が着工されるとその翌年から伯備線の軌道改良工事が始まりました。これは新幹線が岡山まで伸びることによって、これまでの京都口からの山陰本線や新大阪口からの福知山線の陰陽連絡線というものを見直し、岡山口(倉敷)に接続する伯備線ルートを新たな陰陽連絡線とするもので、新幹線の岡山と山陰を結ぶ連絡特急を運行させようというものです。

しかし、当時の伯備線は非電化の単線のローカル線で線路等級も4級線(丙線)と低く、新幹線の速達性を生かしての特急列車の運行には程遠いものでした。そこで国鉄では当時、「特急しなの」としてデビュー前のキハ181系を「特急おき」として伯備線に投入し、新幹線の速達性を活かそうと考えました。

伯備線の軌道改良工事はその為のもので、軌道改良は倉敷-備中高梁間の線路等級のアップと複線化でしたが、その先の中国山地越えの本格的な山岳路線に当たる備中高梁-江尾間(84.1km)は急勾配と急カーブが連続するため、高出力のキハ181でも速度を落としての運行を強いられました。

その結果、伯備線内での「おき」の表定速度は60km/hにも満たない結果となり、その後、伯備線へのキハ391系ガスタービン車の試験導入とつながりました。そのキハ391系ガスタービン車も初期試験で幾つかの不具合が出たものの、その都度、改善策が施され、伯備線内の走行試験では表定速度79km/hを記録するなど良い結果をもたらしました。

キハ181系特急やくも

しかし、最後まで騒音とアイドリング時の燃費の問題は解決に至らず、オイルショックによる化石燃料の高騰から計画そのものが中止されました。その後の伯備線ルートによる陰陽連絡線計画はそのまま「キハ181系やくも」で実施され、1982年伯備線の全線電化による381系やくもに引き継がれたのでした。

381系特急やくも

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

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